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2008年12月

2008年12月31日 (水)

出会いもの

大晦日。
大掃除、新年の用意など慌ただしい時間を過ごして一息。
年越し蕎麦。
蕎麦との相性抜群は鰊(ニシン)
出会いもの。
海のものと山のもの、それぞれでも美味しく、
組み合わせても、さらに美味しい味わいになるものをそう呼ぶ。

和食の代表的なものなら
鰊と茄子
鰤と大根
鯛と蕪(かぶ)
だろう。

産まれも育ちも全く別のところ。
なのに相性がピタリ。
出会いもの。

人もそうなのかも知れない。
それぞれが魅力のある男性と女性。
カップルになればさらなる魅力が産まれる。
そんなカップルは、
「出会いもの」
なんだろうと思う。

そんなことを考えながら、年越し蕎麦を食べるのも良いかも知れない。
もちろん、鰊蕎麦で。

と、書いたものの、
いまから大阪南港の
ホテル「ハイアットリージェンシー」で、
サルサのカウントダウンライブ。
蕎麦屋さんは近くにあるだろうか・・・

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2008年12月28日 (日)

至善至高の神に捧ぐ

至善至高の神に捧ぐ
至善至高の神に捧ぐ
クリスマスを過ぎ、
冬らしい冬になった今宵、
カクテル「B&B」を一杯。
ブランデーとベネディクティンDOMを半々入れ、軽くステア。
琥珀色で甘く香り深い。

DOMとは、
Deo Optimo Maximo
「至善至高の神に捧ぐ」
修道院での祈りの言葉。

このリキュールは
修道院で造られ続けた。
フランス革命の時、
修道院は国に没収されリキュール製造は中止。
その後、製造記録が見つかり復元された。

リキュールを作る修道院は他にもある。
おそらく、味を楽しむためではない。
病や疲れ回復など、いわゆる滋養強壮として。
疲れ果てた旅人や訪れる人々の命を救う一杯として。

命を救う。
そして、祈り。

ボトルに書かれた文字を見ながら、
至善至高の神(ジュピター)に祈りをかける。
大きなことは祈れない。
ただ、
家族がみんな、今年一年健康であったことへの感謝、
そして、
来年も変わらず健康であれと。

今宵、
Deo Optimo Maximo
小さく、つぶやく。

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2008年12月21日 (日)

冬の癒しアイテムに危機!?(エッセイ)

冬の癒しアイテムに危機!?(エッセイ)
火箸(ひばし)を新しく買おう。
火箸は火鉢の炭火の面倒を見るための金物のお箸である。

他の必要品の買い物もあり、気軽に大手スーパーに。
探しても見つからないので、店員さんに尋ねると、
「火箸は置いてません」
とのこと。
諦めてホームセンターへ行ってみる。
ここならあるだろうと思い探す。
「無い!!」

よくよく思い出すと、最近、町で火鉢自体も見かけたことがない。
ホームセンターを出る時、ふと看板が目に入る。
「オール電化の時代です」
無性に淋しさを覚える。
今の自分は時代に逆行しているのだ。
確かに近代家屋は隙間がなく、一酸化炭素中毒の危険性がある。
消えても仕方ないのかも知れない。

幸い日本家屋には隙間が多い。
しかし、その家屋が減っているのだ。

火鉢や火箸が消えることにより、それに纏わる思い出も、より一層遠くなり、思い出の記憶の底に埋もれてしまいそうな気になる。

火鉢の中にはたっぷりの灰が入っていて、その真ん中には、ほわっと赤い炭火が顔を見せる。
火が、いこり過ぎないように、消えないように火箸で面倒を見てやる。
火鉢にごたくを突き刺しヤカンをかけたり、時には網を置いて餅を焼く。
火鉢で手を温めながら、硯で墨を擦り、色紙を描く祖父の姿を思い出す。
何気ない日常がそこにあった。

蝋燭の火や炭火、そして裸電球、蛍光灯、ハロゲンライト。
近代化が進むにつれ、寄り明るさを作り出した。
その一方、「火」の持つ「温かみ」が失われたような気がする。
火は怖いものではあるが、温もりの象徴でもあった。

囲炉裏、薪風呂、おくどさん(釜戸)に豆炭あんか。
巧に火を操り食事や風呂など生活に火を取り入れてきた。
そこには人の手間がかけられている。
小さな心の温もりがある。

スイッチ一つの暮らし。
松風庵でも、今では薪風呂もおくどさんも姿を消した。
しかし、ほんの少しでも火の温もりを残したい。
思い出と一緒に。

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2008年12月 7日 (日)

竹の春

竹の春
竹の春
竹の春
竹の春。
季語は秋。
歳時記をめくると新しい感覚に出会える。
竹は、
春には黄色く、
秋には青々としている。
だから、竹の春は秋なのだ。
「そうなんだ!」
にわかな知識と先入観を入れ、部屋を出て竹林を歩く。
「そう思って見ると・・・」
早速、先入観が顔を出す。
竹林は、枝葉が鬱蒼(うっそう)と繁り、昼なお薄暗い。
そのため、空気は張り詰めている。
冷たい空気を通り抜ける、笹擦れの音が透明感を感じさせる。
時折差し込む陽射しが、
葉の緑を、より鮮明に映し出す。

この美しさは、なんと表現して良いかわからない。
言葉が見つからない。
それを一言、
「竹の春」
なんと奥深い言葉なのか。
一体誰が季語に選んだのか。よほど詩心のある方なのだろう。

紅葉ばかりに目を向けてしまう季節、秋。
しかし、主役は紅葉ばかりではない。
鮮やかな緑もまた、
命の「春」を謳歌している。

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2008年12月 2日 (火)

銀杏黄葉舞い散る(エッセイ)

銀杏黄葉舞い散る(エッセイ)
黄葉真っ盛り。
季節はもはや立冬を過ぎ、
小雪(しょうせつ)から大雪(たいせつ)へとむかう。
木々はこれより一気に葉を落としていくことになる。
イチョウの鮮やかな黄色が、真っ青の空に映える。
このコントラストの美しさには、思わず息を飲む。
残念ながら松風庵にはイチョウは無い。
だから毎年、近くの坂本の寺院で、
ほんのひと時イチョウを眺める。

イチョウは街路樹に植えられていることが多い。
車で走りながら出くわすと、つい車を路肩に止めたくなる。
でも、寺院などで、ひっそりとたたずむイチョウの大木に惹かれる。
一人のびのびと枝を広げ、天高く堂々としている姿には、
不思議と安心感を覚える。
坂本の生源寺、西教寺、慈眼堂の大木は実に見事に黄葉する。

なぜ寺院などにも多く見られるのか。
大木になりやすく威厳を出しながらも、燃えにくく防火の意味もあるらしい。
また孫の代にならないと実がつかない長寿の木で、漢字で「公孫樹」とも書かれ、縁起がいいと考えられた。

やはり古人の知識にはいつものことながら感心させられる。

観光地と称されるところの紅葉も好きで、自分もその他大勢に混じり写真も撮る。
しかし、その場、その時は紅葉のファションショーに過ぎない。
イチョウや紅葉は決して素顔を見せない。

素顔を見るには、地元のしかもひっそりしたとこが良い。
彼らは「見られる」という意識ではなく、
ただ単に、
「黄葉は黄葉としての命を輝かせている」
だけである。
それに気づいた時、
彼らはほんの少し、いたずらをしてくる。

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